令和元年度 本伝会視察研修報告

令和元年度

本 伝 会 視 察 研 修 報 告

「人吉・球磨・相良氏700 年の歩み」
~ 地方豪族領主の歴史と文化と建築遺構 ~

2019(令和1)年11 月16 日~17 日

NPO 法人 本物の伝統を守る会


五家荘から人吉の古建築を訪れる旅 忘備録

三ヶ尻 勝

1 幣立神宮

訪問年月日:令和元年11 月16 日
所在地:熊本県上益城郡郡山都町大野712
所有者:幣立神宮

由 緒:

神武天皇の孫で健磐龍命(たけいわたつみのみこと)が、この地に幣を建て降臨された神々を祀った事が始まりと伝わっている。祭神は神漏岐命(かむろぎのみこと)、神漏美命(かむろみのみこと)、天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、大宇宙大和神(おおとのちおおかみ)、天照大神(あまてらすおおかみ)をお祭りしています。 [参照資料]:幣立神宮由来

建築年代:未確認
文化財種別:指定なし
建物概要:・棟 【平入り】 ・屋根 【入母屋、千鳥破風付・銅板葺き】
(拝殿) ・階数【平屋】 ・軒裏 【二軒化粧垂木】
・外壁【蔀戸と彫刻欄間】 ・小屋組【未調査】
・基礎【未調査】 ・その他【柱頭に組物なし】

日田市を出発し約3 時間後の11 時近くに現地に到着 、朱色の木造鳥居の背面にいきなり急勾配の石階段が目に飛び込む 、周囲は鬱蒼とした森林、ここはパワースポットとして知る人ぞ知る神宮らしい。
石階段を数十段登る、体力の限界を感じ始めた所に踊り場が在り休息を取る。白木造りの鳥居在り、袖柱(稚児柱とも呼ぶ)が付く鳥居で厳島神社の大鳥居と同様式の両部(りようぶ)鳥居、強く印象に残った。更に20 段ほど登ると、「幣立神宮」と記された神明額が架かる拝殿が眼前に在り、向拝、高蘭、本柱等の全てが白木造り、拝殿周囲に組み込まれた彫刻欄間は繊細華美、柱頭には組物は無く簡素、全体が白木造り故であろうか気高く清々しい。本殿を正面見て右手に神明造りの社殿在り、眩しくも見えた。棟持柱(ニタ柱)が少し小さく感じたが後日、木割寸法を確認し写真での本柱との比較であるが、少し小さめを納得。

スケッチ画:東の宮

2 緒方家住宅

訪問年月日:令和元年11 月16 日
所在地:熊本県八代市泉町椎原46
所有者:泉町

由 緒:

文治元年(1185 年)平家の一族は壇ノ浦の戦いで源義経の船団に敗れ全滅した。しかし、伝説によると平家再興の為各地に四散した。当家も平清経の系譜を引くという由緒正しき家柄である。平家の落人伝説などと言うもの、実際には信憑性に欠けることが多い。ただ落人でもなければ、このような険しい山間部に好き好んで住み着くような者は滅多にいないであろうことは確かである。当家は椎原集落を支配し、江戸時代には庄屋職を務めたという歴史を持つ。 [参照資料]:Web サイト 熊本県の民家(緒方家住宅)より抜粋

建築年代:江戸後期 [参照資料]:Web サイト 熊本県南部の建築
文化財種別:泉村指定文化財(八代郡泉村当時) [参照資料]:Web サイト 熊本県の民家

建物概要:

・棟 【平入り・直型】 ・屋根 【兜造り・茅葺】
・階数【一部2 階建て】 ・軒裏 【出桁表し化粧板張り・茅葺 厚小口表し】
・外壁【真壁・漆喰仕上げ】 ・小屋組【叉首構造】
・基礎【玉石】 ・その他【玄関棟屋根:こけら葺】

目的地の五家荘緒方家住宅に着いた、午後3 時半過ぎ。幣立神宮より4 時間近く掛った、後日ネットで調べると幣立神宮より距離62.1km、自家用車で1 時間23 分。国道445 途中の細い曲がりくねった登り道、下り方面からキャンピングカー離合ができない、登りも下りも渋滞、ここでH 氏登場、八面六臂の活躍で無事峠の茶屋に着く、日頃愉快で話しぶりも優しいH 氏の一面を垣間見た。日高さん、運転手の松岡さん大変ご苦労様でした。緒方家住宅で気にかかる事がある。一つ目、植物系の屋根材は方位により経年劣化が極端に違うこと、北面ほぼ全面にコケ類が植生し南、西面は表面の腐朽、剥落があり多少荒れているがコケ類の植生は無、古建築の復元、復原を施す場合、周囲の環境により下地法、メンテナンス等を考慮すべきなのかを一考した。二つ目、揚羽蝶を源氏系の家紋と永年思い違いをしていた、平氏に大変失礼をしました。玄関破風に小振りだがデザインの美しい懸魚在り、家紋が彫り込まれている、三角形が横2 個、その上に1 個の家紋、「三つ鱗」
紋。何故、揚羽蝶ではないのか。後日調べると、桓武平氏(かんむへいし)の流れを汲む
鎌倉北条氏一門の「三つ鱗」紋が有名であるが、桓武平氏の系統に平清盛がいる、納得。
余談だが織田信長は一時、平氏の末裔と名乗ってたとの事?

3 千光山 生善院観音堂

訪問年月日:令和元年11 月17 日所在地:熊本県球磨郡水上村大字岩野3542
所有者:生善院

由 緒:

謀反の疑いにより非業の死をとげた普門寺盛誉と、その後を追って死んだその母、玖月善女を祀るために人吉藩主相良長毎によって創建。玖月善女の愛猫伝説から「猫寺」とも呼ばれている。 [参照資料]: 熊本県教育委員会設置 敷地内碑

建築年代:寛永2年(1625 年) 堂内の須弥壇、厨子も当時のもの
文化財種別:国指定重要文化財(平成2 年9 月11 日指定)
建物概要:・棟 【平入り】 ・屋根 【寄棟・茅葺】
  ・階数【平屋】 ・軒裏 【黒彩色二軒化粧垂木、茅葺 厚小口表し】
  ・外壁【黒彩色落込み板】 ・小屋組【未確認】
  ・基礎【玉石】 ・その他【柱頭:出組付(一手先組)】

見学前に猫の怨霊伝説を聞いた為か、観音堂全体が黒色で、垂木角面や組物角面に細いラインで赤色に彩色された配色、少し不気味に感じた。色の先入観として黒色は暗黒や死、赤色は血のイメージがある為にその様に感じたのか。そこで日本人の黒色、赤色に対しての感覚はどのようなものかを調べてみた。
以下「日本の伝統色」財団法人 日本色彩研究所編/福田邦夫著より抜粋した内容を掲載する。
墨色(すみいろ)
 黒という字は、煙突やかまどにススが点々とついている状態を表しているという。昔から黒い色を着色する材料として、この国で最も多く用いられたのが、墨の黒である。墨の色をすべての色が集約された色と考え、墨色の世界に五彩の美が現れるというのは、中国や日本の書や水墨画が理想とする到達目標であった。文学で墨色の無上の美を発見したのが源氏物語である、という見解を井原昭氏が述べられている。墨染の衣は、もともと喪に服する時に着るものなので、忌まわしく、目も暗くなるような悲しい色であり、縁起の悪い不吉な色と考えられていた。 赤色(あかいろ)
日本語で「あか」という言葉は最古の色名の一つだが、赤の感覚を表す言葉は地球上ほとんどの民族が持っていると言われている。現在でも赤い色から連想されるものは、大抵火か血であり、多くの言語で赤を意味する言葉は、そのどちらからの言葉から発生したと考えられている。
以上が大雑把に抜粋した内容である。
少し珍しいデザインの舟肘木、先端が木鼻様に繰形加工されている庫裏の組み物を見つけた。

4 青蓮寺阿弥陀堂

訪問年月日:令和元年11 月17 日
所在地:熊本県球磨郡多良木町大字黒肥地
所有者:青蓮寺

由 緒:

上相良三代頼宗が永仁3 年(1295 年)に初代頼景公菩提の為、黒肥地の亀田山に創建したと伝えられる。この阿弥陀堂は飛騨の工匠の造作と伝えられ、現在も堂前に通称「飛騨」という地名が残っている。 [参照資料]: 多良木町ホームページ

建築年代:嘉吉3年頃(1443 年頃)
文化財種別:国指定重要文化財(大正2 年4 月14 日指定)
建物概要:・棟 【平入り】 ・屋根 【寄棟・茅葺】
  ・階数【平屋】 ・軒裏 【二軒化粧垂木、茅葺 厚小口表し】
  ・外壁【落込み板】 ・小屋組【和小屋組と合掌造り併用 ?】
  ・基礎【玉石】 ・その他【柱頭:出組付(一手先組)】

この阿弥陀堂は、白木造りの本体軸部と茅葺屋根の配色と高さの関係が美しく、簡素でありながら気品があり、安定感があると感じる。多良木町ホームページで資料を調べると、軒高約4.48m、軒より棟までの高さ7.58m、比率にして1:1.69、ほぼ黄金比に近い、古の匠の感覚に驚愕した。全体の老朽が著しい為、平成6 年から3 ヵ年にわたり大改修が行われたとの事、この時に耐震補強も施されたのだろう、四隅柱頭付近に鋼製バンドを設け虎綱を張り、他方は地中にコンクリート魂を埋め込み、耐震性を確保している工法だろう。視点を変えた補強は参考に成った。但し、木造柱と鋼製バンド部分の破壊モデルはどうなのか、気に成る。

5 太田家住宅

訪問年月日:令和元年11 月17 日
所在地:熊本県球磨郡多良木町大字多良木字中仁原447
所有者:多良木町

由 緒:

太田家は、相良家の家臣として人吉に住んでいたが、後に多良木村に移り農業と酒造業を営んだと伝えられてる。現在残る住宅は、安政3 年(1856 年)頃に博多大工によって建てられたとの事。 [参照資料]: 多良木町ホームページ・現地説明板

建築年代:江戸末期(1830 ~1867) [参照資料]: 文化庁国指定文化財等データベース
文化財種別:国指定重要文化財(昭和48 年2 月23 日指定)
建物概要:・棟 【平入り】 ・屋根 【折曲り寄棟・茅葺】
  ・階数【平屋】 ・軒裏 【出桁表し化粧板張り・茅葺 厚小口表し】
  ・外壁【板壁】 ・小屋組【叉首と棟束併用】 [参照資料]: 多良木町ホームページ
  ・基礎【玉石】 ・その他【谷樋 凝灰岩使用】

当住宅を訪れた時、出入り口や雨戸が解放され、庭も綺麗に清掃され気持ち良く見学ができた。昨日見学した緒方家には管理事務所と管理人が居たが、当家は管理事務所や管理人は居ない、この違いは何だろう。たまたま近所のご婦人だろうか、色々と説明をして頂いたが、盗難や防災のシステムはどうなっているのだろう、地域の人達が協力し合い、この住宅を管理維持していくシステムが出来上がっているならば素晴らしい。この点を先程のご婦人に聞けばよかったと後悔している。

6 十島菅原神社

訪問年月日:令和元年11 月17 日
所在地:熊本県球磨郡相良村柳瀬2240
所有者:十島菅原神社

由 緒:

祭神を菅原道直とし、創建は、弘安年中(1278~1288 年)と伝えられる。室町時代以降は、領主である相良氏によって篤く崇敬されていた。境内には池があり、その中に十の島が点在し、それが地名の由来ともなった。本殿は藤原頼房(相良第20 代長毎)により建てられた。
[参照資料]: Web 地域情報ポータル・境内案内板

建築年代 :本殿「天正17 年(1589 年)」・宮殿「天正17 年(1589 年)」・拝殿「宝暦3 年(1763 年)」
文化財種別 :国指定重要文化財(平成6 年7 月12 日指定)本殿・宮殿・拝殿
建物概要 :・棟 【平入り】 ・屋根 【切妻・板葺き、鉄板仮葺】
 (本殿) ・階数【平屋】 ・軒裏 【化粧垂木】
  ・外壁【落込み板】 ・小屋組【未確認】
  ・基礎【玉石】 ・その他【本殿内部に切妻造りの宮殿を安置】
   【本殿構造 三間社流造り】

杉木立の境内は、行き届いた整備がされ気持良く参拝が出来た、ここも地域の人達が大切に守っている天神様であることが伝わってきた。ここの境内は本殿、拝殿の四方に広い空地があり、建物全体が良く見える、本殿よりも、本殿を保護する鞘殿に興味がいった、合掌造りの茅葺屋根、棟には竹製の鰹木が付いた棟飾り兼棟押え、両妻面には棟持柱を芯に大胆にタスキ掛けの斜材、両軒桁から棟持柱に向かう登り妻桁、その下に水平の桁と登り桁、四段の通し貫、興味を引く軸組である。建設時期はいつ頃のものかも気になる。余りにも鞘殿が気に成り本堂、拝殿は詳しく見まず仕舞いに成った。
当神社本殿の建立者は、肥後人吉藩初代藩主「相良長毎」(さがらながつね)で相良氏の第20 代当主。猫伝説の生善院観音堂も「相良長毎」、同一人物と推察する。(推察資料添付)生誕は天正2 年(1574 年)、死没寛永13 年(1636 年)十島菅原神社は長毎公が15 歳の家督を継いで3 年目に建立となる、生善院観音堂建設は51 歳のほぼ晩年に建立した建物となる。


[全頁参照資料]:
NPO 法人本物の伝統を守る会
「建造物調査表」

推察資料

生善院観音堂と十島菅原神社本殿を建立した人物「相良 長毎」(さがら ながつね)

1. 目的

十島菅原神社本殿の施主は、棟木の墨書から天正17 年(1589 年)に藤原頼房(相良20 代長毎)を施主として建てられた。 ※境内案内板より
正善院観音堂は、寛永2 年(1625 年)人吉藩主相良長毎によって創建された。 ※境内案内板より
十島菅原神社本殿と正善院観音堂ともに相良長毎公の名が記載されているが、同一人物が異なのかの推察。

2.相良氏家系

初代当主は相良長頼(さがら ながより)で平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。
鎌倉幕府御家人。生誕:治承元年(1177 年)死没:建長6 年(1254 年)
※相良頼景を初代とする向きもある。
13 代藩主と20 代藩主が長毎(ながつね)と晩年改名。

3.「相良長毎」名の藩主

13 代藩主:相良長輔 生誕:文明元年(1469 年)死没:永正15 年(1518 年)
  改名:長輔 → 長毎
20 代藩主:相良頼房 生誕:天正2 年(1574 年)死没:寛永13 年(1636 年)
  天正13 年(1585 年)忠房が急逝したため、12 歳で家督を継承した。
  改名:相良頼房 → 豊臣頼房 → 相良長毎

4.生善院観音堂由来

生善院は、謀反の疑いにより非業の死をとげた普門寺盛誉と、その後を追って死んだその母玖月善女を祀るために、寛永2 年(1625 年)に人吉藩主相良長毎によって創建され。堂内の須弥壇や厨子も当初のもの。 ※熊本県教育委員会設置 境内案内板より

5. 非業の死をとげた普門寺盛誉法印の時代

天正9 年(1581 年)、相良藩は鹿児島の島津義久(薩摩藩)と交戦中、その戦の中、第18 代藩主相良義陽が戦死したため、当時わずか10 歳の忠房を第19 代藩主とし、次男長毎を島津氏に人質として出し和睦を結んだ。普門寺盛誉は相良藩の出城である湯山城主湯山佐渡守宗昌の弟にあたる。
「 湯山佐渡守と盛誉法印は、頼貞(先代藩主義陽の腹違いの弟)とともに薩摩藩に協力して人吉球磨に攻め入ってくる。」との嘘の密告により、藩主忠房の姉は重臣と協議し、普門寺を攻めるよう命じた、普門寺盛誉は嘘の密告により非業の死をとげた。 ※Web サイト村上村 生善院(猫寺)の由来より抜粋

6. まとめ

13 代藩主 長毎は生誕文明元年(1469 年)にて、生善院観音堂の創建年寛永2 年(1625 年)とは156 年の隔たりがあり、明らかに年代が違う。
20 代藩主 長毎は、19 代藩主忠房の弟、生善院観音堂の創建の人吉藩主相良長毎は由来、年代等から20 代藩主と推察できる。文化庁国指定データベースにより 十島菅原神社本殿は天正17 年(1586 年)建立、生善院観音堂は寛永2 年(1625 年)建立と公表。熊本県教育委員会設置の境内案内板の「人吉藩主相良長毎」によって創建されたは、建立されたと解釈してよいのでは。
※相良氏家系、「相良長毎」名の藩主:Web サイトのウイキペディアを参照


令和元年 NPO 法人「本伝会」研修 11 月16 日(土)~17 日(日)

会員 三松 健次

研修テーマ   人吉球磨相良氏 700 年の歩み
     地方豪族領主の歴史と文化と建築遺構

研修ルート・見学所

Day 1. 日田 ― 小国 ― 阿蘇 ―「幣立神社」― 石橋見学 ― 二本松峠― 五家荘・「緒方家」― 湯前 ― 水上村(民宿川原)
Day 2. 民宿川原 ― 吊り橋見学 ―「生善寺観音堂」・「青蓮寺阿弥陀堂」・「太田家住宅」―「十島菅原神社」― 高速人吉IC ― 日田

「幣立神社」 上益城郡大都町大野712

 熊本県上益城郡の国道218 号と265 号が交差する山都町に鎮座する神社であり、日の宮
とも云う。小高い丘の頂上に建っている神宮本殿までは、傾斜が40 度の石の急階段が続く。
 最初の神殿が造営されたのは平安時代の延喜年間(901~923 年)のことで、現在の社殿は享保14 年(1729 年)、細川宣紀に改修されたもの。境内には御神木のヒノキやスギの巨樹が有る。古事記で原初の神とされる天御中主大神や高天原の主とされる天照大神、阿蘇十二神といった神々も、境内の摂社などで祀られている。神宮には五色人の5 つの面が神宝として安置されている。

※ 五木・五家荘 地域について

「五家荘」とは八代市泉町の奥地にある縦木・葉木・仁田尾・久連子・椎原の5 地区の
事である。壇ノ浦の戦いに敗れた平家の落人が住み着いたと伝わる3 地区と、菅原道真の
末裔が流れ着いたと伝わる2 地区の総称である。落人たちが生きる一心で逃げ延び住み着
いた人踏未踏の隠れ里である。

「緒方家」 泉町椎原46

 文治元年、壇ノ浦で源氏に敗れた平清経は、源氏の追討を逃れるため、四国伊予今治、
阿波国祖谷さらに豊後鶴崎港を経て湯布院に入る。ここで竹田領の士族 緒方氏の招きで
その館にしばらく居住する。その後、姓を緒方に変えた平清経の子孫 緒方紀四郎盛行が椎原に住み代々この地を支配し住んだ家敷が緒方家である。
 築約300 年の茅葺きの武家屋敷であり、隠し部屋など人目を避けて隠れ住んだ平家落人の暮らしを垣間みることができる。

「左座家」 泉町仁田尾64

平安時代、藤原一族の追討を避けるため、平家の落人より先にこの地に着いた菅原道真
の末裔が姓を「左座」と変え、地頭として仁田尾を支配し住んだ。現在の建物は築200 年を越える茅葺の古屋敷である。
 菅原家の梅の家紋が入っていたり、来客の身分によって3 つの玄関が有るなど、興味深
い造りとなっている。

※ 人吉・球磨地域

 熊本県の南部に位置する人吉市は、球磨川を中心とした生活や文化が息づく町である。
この地域は数多くの社寺仏閣・観音堂・武家屋敷を有する。平成27 年4 月に、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るとして日本遺産に認定される。

〇国宝「青井阿蘇神社」~熊本県で初の国宝指定を受ける
〇人吉城跡~日本百名城 建久9 年(1198 年)初代藩主 相良長頼によって築城される。
〇永国寺~人吉球磨地方にある曹洞宗十六ヶ寺の本寺。創建1408 年
〇明導寺~明導寺阿弥陀堂は熊本県最古の木造建築で国の重要文化財。
〇願成寺清水観音 〇相良三十三観音 〇岩尾熊野座神社
〇大信寺 〇相良家墓地 ~など。

「生善院観音堂」 :国指定重要文化財

 生善院観音堂は、この地区に住したひとりの僧侶とその母の御霊を慰めるための霊廟と
して寛永2 年(1625 年)に人吉藩主・相良頼房によって創建された。生善院は化け猫の伝説により「猫寺」と呼ばれている。桁行3 間、梁間3 間の大きさで、屋根は茅葺き、黒漆塗りの壁面、極彩色に塗られた浮彫彫刻、更に赤、白、青の配色、お堂正面入口にあたる向拝・蛙股部分には真っ赤な邪鬼像が踏ん張っている。観音堂は人吉球磨地方特有の様式を踏襲したもので、平成14 年に解体修理が行われ、創建当時の景観が甦った。

「青蓮寺阿弥陀堂」:重要文化財

 鎌倉時代以降の多良木相良氏の菩堤寺である。多良木相良氏初代とされる相良頼景の供
養のため、室町嘉吉3 年頃(1443 年頃)建てられる。
 桁行五間、梁間五間、寄棟造りの茅葺である。近くには相良一族の古塔碑群がある。

「太田家住宅」

 江戸時代後期(1830 年-1867 年)に建てられたと伝わる住宅。
折曲り寄棟造りの茅葺き屋根である。家づくりの規制が厳しかった時代に、鉤型に棟を増
やし、住宅の広さを確保した特長がある。幕末には焼酎を製造していたと記録に残ってい
る。この他球磨郡錦町に桑原家住宅が有る。

「十島菅原神社」 球磨郡相良村 国指定重要文化財

 このあたりには、驚くほどの文化財が溢れている。その一つが国指定重要文化財の十島
菅原神社である。境内の池には10 の島が点在しており、それが地名の由来となった。本殿は安土桃山時代(1589 年)の建立。戦国時代真っ只中である。拝殿は江戸時代中期とだけある。本殿を守るように囲んだ覆い屋付である。ここの境内には、日本遺産という幟が立っていた。この近くには人吉藩内の一向宗門徒や、一向宗に関わった者から没収した仏像・仏具を焼却した跡地がある。

※ 人吉藩の一向宗(真宗)禁止政策

 熊本県南部の人吉球磨地方では、室町時代後半から明治初年まで、一向宗の信仰が禁止
されていた。人吉藩は人吉盆地に位置する小藩で、藩内は士族と農民が居住地を同じくす
るという特殊な村落構造であった。士族は農民を細かく監視し、更には民衆を支配強化す
るために、真宗禁止政策が施行された。
 これに加えて他国との交流が乏しい鎖国的な国柄であり、他国からの入国者を極端に嫌
っていた。江戸時代、幕府は一向宗の信仰を認めていたが、人吉藩主相良氏は許さなかっ
た。人吉藩は同じ念仏信仰でも浄土宗や時宗は認め、一向宗だけを禁制とした。藩内には
菩堤寺として曹洞宗の「永国寺」が、祈願寺として「願成寺」が既設されていたが、民衆
はこれを無視して真宗に帰依していた。真宗禁制の主たる理由として、①一向一揆に象徴
される真宗門徒の勢力を懸念した ②人吉藩の内部情報の流出を恐れた ③阿弥陀如来の前
では、身分・性別・年齢・貧富の差を超えて全ての人は平等であるという真宗の教えの問
題 ④藩を頭越しにして行われた京都本願寺への上納金を取り締まるため・・・などが挙げられる。一向宗門徒は当時の領主にとって恐怖の集団であった。明治に入り信仰の自由が認められるまで禁制は続いた。一向宗を信じる人々は隠れて信仰し続け、「講」という秘密の組織を作って集会を続けた。こうした信徒は「隠れ念仏」と呼ばれている。一向宗禁制は、閉ざされた盆地に伝わる凄惨な歴史でもある。人吉球磨地方の随所に一向宗の信徒が残した「隠れ念仏」の遺跡を見ることができる。人吉藩の一向宗禁制は、転宗を拒んだ隠れ門徒たちの様々な殉教悲話を生んだ。

 隠れ念仏ゆかりの地として与内山の首塚聖地・尾曲の十四淵・十島仏像仏具焼却跡など
がある。当然のことながら人吉藩には一向宗寺院は一ヶ寺も無い。

※ 人吉藩の宗教

 人吉藩の宗教環境のうち仏教は、真言宗・曹洞宗の諸寺院が有ったがこのうち曹洞宗「永国寺」が相良家歴代の帰依を受け、相良家家中の位碑の安置所であった。また真言宗大覚寺派「願成寺」は相良氏の菩堤寺で累代の墓所が有り、伝承によれば三十五ヶ寺の真言宗寺院を統轄していた。この二ヶ寺は特に人吉藩の行政と宗教界に大きな影響を及ぼした。
 神社は人吉の「青井大神社」を郡中の「惣廟」、市房大権現を「惣鎮守」とし、相良氏の氏神を「春日大神社」とした。人吉地方の神社の特色は、山神・雷神・洞窟神や御霊神・大王・若宮など、不遇な死を遂げた怨霊を祀る祟り神が多い事である。これら自然祟拝の神社が多く散在するのは、人吉藩が深山であるという自然的環境も一因であろう。

※ 人吉・球磨地方の産業をみる

 鎌倉時代の初め、相良氏の赴任に伴いこの地を訪れた刀工や鍛冶職人は各々研鑚を積み、独自の技術を編み出し人吉刃物が発展した。明治に入ると農業や狩猟が暮らしの糧となり、農耕刀物は発展してきた。職人町である「鍛冶町通り」は昔ながらの町並みが軒を連ならね、城下町の面影が残っている。
 寒暖差が激しく霧深い人吉盆地は、椎茸栽培に適した環境が整い、相良氏統治の時代に
は椎茸を巡る百姓一揆が起きる程、盛んであった。人吉球磨地方は熊本県最大のお茶の産
地である。約400 年前から球磨川水源地域を中心に栽培が行われ、冷涼な気候と豊かな水が芳醇な茶葉を育んできた。山々に囲まれた球磨盆地では冷涼な気候を生かした農業や、豊富な草資源を活用した畜産業が盛んに行われてきた。