平成27年度 本伝会視察研修報告

平成27年研修に参加して

本伝会会員 みつまつ塗装 三松健次

①門司港駅保存修理工事を見学して
p04_01 保存修理現場に近づくにつれ、仮設上屋の大きさに圧倒される。現場所長の今岡氏から門司港本屋の経緯や修理経過、修理に至る経過などの説明を受ける。その後現場内へと移動。目に飛び込んできたのは仮設柱の巨大さと数の多さである。一辺が約60cmほどの鉄製の角柱で、上部を確認することの出来ない高さである。基礎部は原状復帰のためにシートを張って生コンを打っているとの事であった。
 駅舎は建物の骨組みを残して、分解された状態である。建物の分解と並行して行われた調査によって、時代ごとに繰り返された増改築の事実が痕跡により明らかになった。例えば現在の駅長室である。この部屋は当初「電信室」であったがその後「特別応接室」へと改造され、その後「駅長室」として現在に至っている。
 又、2階にあった「みかど食堂」が1階の「一・二等待合室」への移転、「三等待合室」は昭和の終わりまで使われたが、一部にうどん屋・キヨスクが造られた事が分かったという。平成元年、「三等待合室」はしゃぶしゃぶ屋・うどん屋へと、「一・二等待合室」だった食堂は駅(みどりの)窓口、小荷物取扱所は待合室へと変更され、近年まで使われていたとの事である。
 解体によって新しい発見もあったという。例えば貴賓室の漆喰壁に紙張りの痕跡があった等、防火が目的であったのか、壁に平瓦を張っている事、第二次世界大戦末期と思われる銃痕が間柱や屋根から発見された事などの話があった。解体作業中、特に注意すべき個所や塗りの層などを部分的に見本として残しておくという事は、復原工事の際には大変参考になると思う。
 現場を一巡した後、今岡氏より補足の話があった。工事期間10ヵ月、工事従事者の数、特に大工さん1日150人、規模、日当、総工事費などの話は現実の問題として興味深いものであった。
 門司港駅本屋の保存修理工事は、平成24年7月より国庫補助事業として着手、平成30年3月に完了予定だという。

②重伝建地区 御手洗にて
 島を結ぶ4つの橋を渡り、広島県呉市御手洗に着く。この地は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、寛文6年(1666)町づくりが始まる。早速「みたらいい町・御手洗マップ」を入手して町並み探訪へ。この地区は、江戸の町並みが残る常盤通り、昭和の町並みの相生通り、明治・大正の町並みの蛭子通り、江戸の町並みの築地通りから成る。
・天満神社
  うっそうとした木々に囲まれ、開かれた地にこじんまりとした社殿が建つ。この天満宮は1階が潜れるようになっていて、通称「お宮のトンネル」と呼ばれているとか。境内には菅原道真公ゆかりの井戸・歌碑などがある。又、日本で初めて自転車による世界一周無銭旅行を達成した、明治4年生まれの「中村春吉」の碑や邸跡などがある。
・若胡子屋跡(ワカエビスヤアト)
  江戸時代のお茶屋である。御手洗には4軒のお茶屋があり、最盛期には百人の遊女がいたと記録にある。現存するのはこの「若胡子屋」だけであり、当時から近年までの品々が展示されている。時代の流れに沿って展示されている写真を見てゆくにつれ、当時の賑わいが偲ばれる。江戸期からのお茶屋という事で、私なりのイメージを持っていたが、案外小規模だったのには驚いた。
・旧金子家住宅
  修復中であったため、内部を見学する事が出来なかった。この金子家住宅は「御手洗条約」締結の地であり、長州藩の運命に関わる勤皇の志士たちが談義に花を咲かせた場所でもある。ここは築150年の茶室があるとのことだが、見学できなくて残念。
・旧柴屋住宅
  江戸期の庄屋屋敷であり、伊能忠敬が滞在した所でもある。屋敷に入る前から何かが違うと感じていたが、一歩踏み入ると答えはすぐに出た。庄屋屋敷らしいゆとりの有る造作・間取り・建材などを見ていると、なんだが心が安らぐのである。裏の蔵には、伊能忠敬にまつわる品々が展示されている。文化3年(1806)伊能忠敬が御手洗を測量するとある。
御手洗のまとめ
p04_02 瀬戸内海のほぼ中央に位置する御手洗は、江戸期より中継港・貿易港として栄え、人々が集い、物が集まり、文化が育った。長州藩との関わりや歴史的にその名を残している人々が立ち寄ってる事など、存在の重さに感服する。広くも無く、狭くも無い地理的要因、時代の特色をもつ4つの通り、栄華の足跡がほど良く整備されている事など、町並み探訪に深みを与えている。地区民の人々は、どっかりと腰を据え、快適地道に生活しているように感じた。

③萩反射炉
  萩の産業世界遺産群のひとつである。石段を登りつめると、小高い開けた地に石造りの反射炉がそびえ立つ。
  反射炉は鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉で萩藩の軍事力、海防強化の一環として導入が認められた。安政3年(1856)に試験的に操業したものと考えられ、高さ10.5mの煙突にあたる部分が残っている。他の部分の欠落の原因は落雷や経年疲労との事であった。
  なぜこのような地に反射炉を造ったのだろうかと疑問を感じていたところ、ガイドさんの解説にて解決する。海から近いという地理的な要因や陶土・陶工などが関係していたのではないかとの事であった。反射炉が現存するのは静岡県と萩市の2ヵ所だけで、産業技術史上大変貴重な遺跡である。

④佐々並市(ササナミイチ)
  萩市の重伝建地区は①堀内地区、②平安古地区、③浜崎地区、④佐々並市地区と4地区ある。佐々並市は最も若い重伝建地区の選定で平成23年6月である。
  佐々並市は萩市の南部を占める旧旭村の南に位置する農村集落である。かつて萩城下町と三田尻(防府市)を結ぶ萩往還の中間点に位置する事から、宿駅機能を有する集落として栄える。佐々並市の町並みは江戸初期に農業を基盤としつつ成立し、近年に至るまで町並みの地割に大きな変化はなく、佐々並市の特徴を示す建築物や工作物、萩往還や棚田などの環境物件が数多く残っている。町並みの多くは間口の広い平入りの本二階建、二階には手すりを廻らしている。なかには袖卯建を設けている所もあり、家業の繁栄が偲ばれる。
  重伝建地区という事で整備は進んでいるようだが、見学者・観光客の姿が無いのは何故か。しかし、重伝建地区での課題として建物を保存修理出来てもその建物をどう活用するか、という事が常であるが、大部分の人達がその建物で生活しているように見受けられたのは心強く感じた。まだ未整備の物件が数多く有るように思えたが、これから約20年位かけて、保存修理工事を進めていくとの事であった。

⑤三宜楼(サンキロウ)
p04_03  栄町商店街から南西へまっすぐ登ると、木造三階建の三宜楼が威風堂々と聳え立つ。
  門司港の高級料亭としての三宜楼は、明治半ばに開業し、現在の建物は昭和6年に新築されたものである。現在、一階は展示室、二階は大広間、三階は俳句の間(和室)となり、大広間は貸し出しがされている。
  三宜楼は当時の大手企業、官庁の方々の社交場として、また文化芸能に関わりのある著名人による文化の発信拠点であったとの事である。
  建築当時の匠の高度な技は、改修後でも至る所で見ることが出来る。和室ごとに変化をもたせた下地窓や欄間は「粋」が結集されたしつらえとなっている。匠のたゆまぬ努力や、良いものを造ろうとする心意気が意匠のひとつひとつに込められていることを強く感じた。
  この三宜楼は社会的・建築的な価値を有しながらも、解体取り壊し、売却の危機にさらされるも、地元の有志たちの働きにより、平成19年に「保存する会」が所有権を取得。その後北九州市に寄贈され、平成24年保存修理工事に着手。平成26年4月に一般公開されるようになった。現在、8つの団体から成る「三宜楼運営協議会」が建物を借り受け運営している。
  歴史的建造物の多くが抱える問題として、維持管理の難しさがあるが、三宜楼も計り知れない努力の賜物が現在の保存に至った事例と言える。大分・日出町に存する「的山荘」は生い立ちは違えども料亭の道をたどり、指定管理者を設けて維持されている。維持管理の難しさを考えさせられた。